『イメージ』
というと、中途半端に引き寄せの本を読んで理解も実践もしていないから結果もでずにいる人にこう言われることがある↓
「あ~イメージしたら叶うってやつでしょ。胡散臭い。そんなので叶ったら誰も苦労しませんよ。」
あ、そうっすね。っという顔をして私はそれ以降、如何にしてこの場で気配を消し、早く帰る方法はないかと考える。
たまに、私の仕事を知っている人が、「この人はそんな話の先生で、、、」など言い出そうものなら、私はその話をさえぎって黙ってもらう。仕事でもないのに、目の前にいる今後付き合いたいと思う気持ちを1ミリも感じない人に有益な話をする気は毛頭ない。
が、イメージは引き寄せだけに使うものでは全くない。
日常生活にも、抱える問題にも、イメージができるかどうかで雲泥の差が生まれてくる。
先日、私はある失敗をした。
ゲッと一瞬頭を抱えたが、終わったことを嘆いても意味がないので、今後同じことがあった場合はどうしたら良いかを考えた。
その対策を考える過程で、今回の失敗がなぜ起こったかも考えた。
すると、わかった。
私がイメージできていなかったということに問題があることを。
もし私が先のこと(未来)をイメージしていれば、事前に対策を講じることができた。
もし私が、問題が起った時点で「今」優先すべきことをイメージできたらもっといい策を講じることができた。
あ~~まさに、イメージ力、想像力の欠如ではないかと痛感した。
世の中で起っている問題もイメージ力があればと思うことがある。
今話題の日本の国葬も。
もっとイメージできなかったのかと言いたい。
あんなに早い段階で決定したら批判があること。
費用の報告の仕方も、そんな言い方では火に油を注ぐだけであること。
外国からの来賓がいるのに、国内がこんな状態では恥ずかしすぎること。
今更やめられないこと。
そして、私が一番そうなって欲しくないとイメージしていたことも起こっている。
それは、反対論者の中に「国葬を辞退しろ」と奥様に直訴する人がいるということだ。
バカじゃないのかと思ってしまう。
奥様が辞退すると言ったら国が取りやめると思うのか?
あの奥様が国葬を望んでいると思うのか?
ただでさえ、夫が殺害されるという受け入れがたい出来事を抱えている人に、これ以上の精神的負担をかけることがどんなに非情なことか子供でも想像できる話だと私は思う。
ホント、どれもイメージ力がないせいだと思ってしまう。
問題を抱えた時、ただただ落ち込んで止まる人がいる。
落ち込んで止まっても解決策は浮かばない。
そんな時こそイメージだ。
ここからどうなりたいのか?
これをどうしたいのか?
これができたらどうなるのか?
落ち込みながらでも想像できることはいっぱいある。
生産性のない落ち込みを抱えて時間を過ごすなら、ちょっとでも明るい明日を想像して過ごす方が良いと思ってやまない。
笑っても泣いても、時間は同じく刻々と過ぎていくのだから。