こちらのブログに書いていた割れたグラスの話。
先ほど修理をお願いしていたメーカーさんが修理完成の写真を送ってくださいました↓
ちなみに、以前のブログを読んでくださった方からはこんなお声を頂いていました。
「修理してもらえてよかったですね!」
「大事にされていたのに残念でしたね。」
「私もあれが割れたら同じことを望みます。」
「物を大切にされている姿勢がわかるお話で素晴らしいと思いました。」
などなどのお言葉を頂きました。
おおむね、私の行動、思いを理解し褒めてくださる言葉が続いていました。(ま、本人に悪いこという人はめったにいないだろうけど)
私も修理してもらえることを喜び、メーカーさんに感謝し、万々歳でしたが、、、
先日、このブログを読んだ友達からこんな言葉をもらいました。
「スゴイな~ものに対する執着。こんな風に考えるってびっくりしたわ。私は物にそんな執着ないわ。」
私は「執着」という言葉にびっくり。
「わ、私、これ執着なん?」といっぱい?マークが飛びました。
執着とは、セラピーではよく出てくる言葉で、執着が取れないとか、執着をなくしたいというセッションをすることはままあるのですが、私の器を大事にする気持ちに「執着」というラベルを貼られたことにびっくりでした。
特に、オーダーして作ってもらったものなので、職人さんへの感謝とか、こだわってくださる想いに感動していたので、多くの人が嫌がる、手放したがる「執着」とは無縁のものと思っていた私はびっくりでした。別名、「気ぃ悪い」とも言いますが(笑)
この話から思うのは、同じ行動でも、正反対の見方をする人がいるということです。
自分はそんなつもりがなくても、そう取られる。
褒めてもらおうと思わなくても褒めてくれる。
怒らそうと思わなくても怒られる。
良かれと思ってしても迷惑がられる。
迷惑だろうと思っても、喜ばれる。
些細なことだと思っていても、ものすごく感謝されている。
他にもいろいろ。
なので、言いたいことは、人がどう思うかを考えてもしょうがないということです。
心理的にも、人は自分のフィルターという「色メガネ」をかけていて、現実をそのまま見るわけではありません。
目の前にある赤いリンゴを見ても、見る人によって違う色に見えているのかもしれません。
事実はひとつ、見方はそれぞれ。
という感じです。
人の目が気になって、行動を制限されている方は、こんな考えもあることを頭の片隅に置いてみて頂きたいです。
人生100年時代ですが、人の目を気にしている時間はもったいないと思いませんか?
光陰矢の如しです。