言葉が人生を創る
そんなことを言う私も昔は『またぼやいてる~』とよく言われていた。
気に入らないことがあるとすぐに文句を言ってたし、よく怒ったし、『アイツ絶対間違ってる』『頭悪い』などは日常茶飯事言っていた。
でも心の世界に入り、言葉の力をしり、怒ることも減り、トラブルがあっても『私が悪いのではないか』と考えることも多く『相手には相手の気持ちがある』など思うことが日常茶飯事になった。
でも今日はぼやいてしまう。何の得にもならず、むしろマイナスだろうけど言ってしまう。
最近の世の中、うるさい。
誰がどうしたとか、こうしたとか、パワハラだとか多様性だとか。
昭和的な会話をすると、多様性に反すると言われる。
多様性という名の思考の弾圧ではないかと思うことがある。
多様性って、どんな考え方を持っていても認めるってことじゃないのかと思う。
他にも、、、
ちょっと前、YouTubeに何十秒かの動画をあげた。
イイも悪いも、意味もなく、単なる行動を撮っただけなのに低評価印があった。
笑った。
この動画のどこに、いい悪いを判断する材料があったのだろうかと。
良いこともないし、悪いこともない、単に、なんの意味もない報告動画なだけである。
それで低評価って、何をご期待されて裏切られたのかと不思議になり、
YouTubeでバンバン動画をアップしている友人にこの話を言ってみた。
どこに低評価とポチっと押す決めてがあるのかわからないと。
すると友人は当たり前のように言った。
『こんな動画見て時間損した』ってよう書かれんで。
なるほど、、、時間の損を言ってるのかとちょっと納得。
でも、次に思う。
損したって思っても、わざわざそれをその人に教える必要あるの?っと。
あ~つまらなかった、と思って次へ行けばいいだけじゃないのかと。
決して低評価をつけられて怒っているのではない。不思議でしょうがなかっただけ。
反対に、高評価ボタンとチャンネル登録お願いしますのフレーズも気になっている。
聞く度に、毎回毎回頼んでまでいる?と思ってしまう。もちろん、双方にメリットがあることはわかるが、いちいちめんどくさいな~と思ってしまう。
ミシュランもそう。
知っている人がミシュランに載りましたと喜んでおられると心の底から祝福しておめでとうございますと言うけど、私がオーナーなら載せていらない。
勝手に来て、頼みもしないのに評価して、1つ星だの2つ星だの決められる。
挙句、今年3つ星で歓喜しても、もし来年1つ星になったら何があったのかと思われるし、下がった評価にショックで悩んでしまうかもしれない。
そんな憂き目にあいたくないので私がオーナーなら絶対に載せていらないと思うはず。(ザ・小心者)
昆虫好きでもない私が人間が面白くて見ていたカマキリ先生も、もうしばらくは見れなさそう。
一つ出てきたら墓場まで掘り返す勢いで、いろんなことをさらされる。
人間、長いこと生きていたら人に言われたくないこともあると思う。
酷いことをしたことも、下劣なことをしたことも、暴言を吐いたこともあると思う。
ある面から見たら最悪でも、真実は別にあることもある。誤解もあるし、捏造もある。
でも写真のように切り取られた一つのことで、あれこれ言われて抹殺される、なんて恐ろしい世の中だと怖くなる。
車に乗っていても思う。
明らかにその1台の動きのために後ろが大迷惑している場面がある。
今までならブッっとクラクションを鳴らし、その後はスムーズに運ぶのに、最近はあおり運転だと言われそうで行動を起こせない。
先日も信号待ちでなかなか動かないのでおかしいと思ってみてみると、どうやら感知式の信号なのに停止線前で止まりすぎ、信号が車を感知していないことがわかった。
そりゃ一生待っても信号は変わらない。
私はその車の3台後ろ。前も、その前もおとなしくじっと一緒に延々変わらない信号を待っている。
たまり兼ねて従来の半分の音量でクラクションを鳴らすも、当然のように気づかれず、前の車に不審な顔をされて終わるだけ。
私はたまり兼ね、車を降りて前まで行き信号を指さして前に行ってと指摘した。
教えただけなのに、、、ガラスの向こうで何かを私に言っている。明らかにおびえた顔で言っている。
え、私、変な人扱い?
ホント、何をするにも気を遣う。めんどくさい。
なんだか、もっとぼやきたいことがあったのに、今日はこのくらいしか出てこない。
これが「焼きがまわった」ということかもしれない。
ここまでお付き合い頂いた方がおられたら「読んで時間を損した」って思われるでしょうが私にそれを言わないでくださいね(苦笑)